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知的障害者の人権に関わる提言

知的障害者の人権に関わる提言

知的障害者の人権に関わる提言
はじめに
 平成9年度厚生科学研究(障害者等保健福祉総合研究)「知的障害者の権利を守る方策」研究班から下記のとおり委託を受け、知的障害者への人権侵害に関わる問題の所在およびその対応策等について網羅的に検討を行い、ここに提示するものである。
1 埼玉県社会福祉士会への委託内容
 知的障害者者への人権侵害の事例が散見されているが、今後の知的障害者の社会参加を促進していくためには、このような事件の起こらない社会の構築を図ることが急務である。 そこで、知的障害者の社会参加の進展に伴い発生するだろうと思われる人権侵害の内容及びその問題を予防するための対策等についてあらゆる場面を想定して提言する。
2 方法
 埼玉県社会福祉士会が特別委員会を設け、会員に対し社会福祉士として今後の知的障害者の社会参加を支援する視点に立った意見を網羅的に聴取し、重要な事項ごとに検討を行いその対応について提言としてまとめた。
3 基本的視点
 知的障害者を支援する業務への従事の有無に関わらず社会福祉士(ソーシャルワーカー)の視点からア、イ、ウ、エのように今後、知的障害者の社会参加の進展に伴い発生するだろうと思われる人権侵害の内容及びその問題を予防するための対策等についてあらゆる場面を想定して提言する。
ア 実際に経験した事柄を基に、今後危惧されるようなこと
イ 他人から聞いて想像されたこと
ウ 新聞報道等から自分なりに想像したこと
エ また、マスコミに報道されるような大きな問題でなく、つい見落とされたり、明確な人権侵害として一般的な認知が未だに低いと思われるようなこと
4 検討結果
 その結果を、次のように施設に関する内容と在宅に関する内容の主なるなる事項について、その状況、問題の所在および対応について提示した。

目 次

施設関係

1.本人の意思を無視した施設入所

施設関係

1 本人の意思を無視した施設入所
 「精神薄弱者福祉法」第1条では、「精神薄弱者に対し、その更生を援助するとともに必要な保護を行ない、もって精神薄弱者の福祉を図ること」を法の目的としている。障害者の援護に関わる者が考えなくてはならないのは、「誰にとっての福祉を図るのか」という点である。
 現行の法体系の中における施設入所は、実施機関(福祉事務所)の「措置」であり、制度的には福祉事務所長が入所を決定することになっている。つまり、職権による措置であり、本人や家族の意向が絶対的に尊重されるとは限らない制度である。 しかしながら、そもそも知的障害のある人が施設に入る、言い換えれば地域で生活できないという理由はなんであろうか。
 本人が施設において生活したいという意向を持つ場合はまれで、家族や周囲の意向により施設入所が希望される場合がほとんどであろう。現在の在宅施策が十分でないため、家族が介護負担に耐えられないために入所を希望せざるを得ないのである。本来は、多様な生活形態の中から、本人がより良く生きていける形が選ばれなくてはならない。
 親が将来の心配から、「今」施設入所を進めるのは、果たして本人のためになっているのであろうか。知的障害者の施設の入所期間は、残念ながら非常に長い。極端に言えば18歳前から65歳過ぎまで、人生のほとんどをそこで送ることになってしまう。
 親としては自分が安心したいために、本人にとってその必要が無くても若いうちに施設入所を希望してしまう。他の親や施設関係者から「今なら入所できます」と言われれば、迷うのは当然であるが、本人の「幸せ」を親が決めてしまうのは、人権侵害であることを銘記しなくてはならない。
 本来は、施設入所について本人の判断を支援することが福祉事務所をはじめとする行政の役割である。「職権による措置」という現行法制度の下では、親(保護者)の入所希望に添うことだけを考えずに、本人にとっての必要性を見定める責任が福祉事務所にはあるはずである。

提言
 「精神障害に関しては、実態としてはともかく入院などの医療の実施について、患者本人の同意を尊重する制度的位置づけがある。知的障害者の福祉に関しては、障害者本人の同意を確認するシステムすら無いのが現状である。 本人の同意も必要でない現行の職権による措置制度を見直し、本人の意思の尊重及び措置の妥当性についての第三者による検証システムが必要である。 施設入所によって『安心』を手に入れるのではなく、本人が地域で生活していく中で、失敗したときに対応できる生活支援システムの構築こそ求められている。」

2.画一的処遇

2 画一的処遇
 施設では居住型であれ、通所型であれ集団で生活し、あるいは作業的取り組みをするために、殆どの場合一定の日課が組まれている。その結果、施設の利用者の多くは定められた日課を守ることが要求されることになる。中には食事時間帯、入浴時間帯、夜間の安眠時間帯の設定など、場合によっては、生活リズムとして必要なものもある。 しかし、一斉に起床・就床する、いただきます、ごちそうさまを待たせる、一律な入浴時間、もしかしたらトイレの時間なども職員の都合で決められてはいないだろうか。ここで問題になってくるのは、日課が決められていることではなく、職員が決めた日課に集団として誰彼の区別無く、否応なく従わせようとしていることが少なくない点であろう。そして多くの場合、職員不足が理由にされたり、公平という言葉でこのことが正当化されることが多い。利用者は同じ時間帯に毎日同じことをさせられ、同じ環境の中で、いつも同じ顔をつきあわせて生活することを余儀なくさせられている。
 根幹は措置制度とこれに根ざす保護主義、更生目的の指導・訓練の姿勢にある。措置制度の本来の性格が保護主義である以上、施設は基本的に当該施設内で利用者の生活の全てをまかなうこと、すなわち丸抱えの発想に基づく処遇を図ることを求められているに等しい。
 これは事実上不可能なことであり、社会が提供しうるサービスが複雑化し、それにつれて個人のニードが多様化していく現在、施設におけるサービスとのギャップは深まっていくばかりである。そして多くの施設職員は、施設の現実的な必要性と、個別的対応の必要性との間で自己矛盾をかかえながら日々過ごさなければならない。これが選択権を保障できない環境づくりにも結びついてしまっている。 また、実情としての画一性の背景の一つに、利用者本人に対する誤解や偏見はないだろうか。職員や家族は本人が自分で日課を定め、規則正しく生活することは困難であるという先入観を抱いていることもあろう。さらに、運営・管理上の都合を背景として個人差を認めようとしない傾向があり、これを正当化するために公平や平等といった言葉が利用される。一人の利用者だけに特別の処遇はできないとか、他の利用者がやっていることには合わせてやってもらわねば困るといった言い回しで指導や指示が頻回にされている場合がある。後者は多数の利用者を限られた空間と職員数の元で、安全無事に管理することを中心目標にしてしまう傾向が強いためであろう。またその方が職員にとって楽なので、個別化の試みには二の足を踏みがちになる。 このように画一的処遇が続けられると、コントロールされた環境でしか生活できない、およそ社会参加とは逆方向の幅の狭い生活形態になってしまうことは想像に難くない。
 現行の措置制度の下では、施設、特に居住施設の場合は、健康で文化的な生活を保障するだけのハードとソフト両面がそろっていることを前提としなければならないが、個々の生活をより豊にするための方策は必ずしも施設に完備されている必要はない。生活に必要なものの全てを施設で用意しようとする幻想はそろそろ止めにして、社会資源を大いに利用してQOLを高める発想に切り替えたい。 カラオケをしたければカラオケボックスに行けばよいし、お茶や食事も喫茶店やファミリーレストランに行けば多様な選択と丁寧なサービスが受けられる。買い物におけるデパートや専門店またはスーパーの利用、ボーリング、スイミングスクールなどの様に出かけて行かなければ受けられないサービスも少なくない。交通手段については、公共交通機関その他の選択肢は多いはずである。 一方、利用者の生活の質の向上を考えるときに必ず真っ先に問題になるのは職員の数である。職員の適正な配置数についての検討と援助の質の向上についての研修等は続けられなければならないが、いつも顔を突き合わせてばかりで、時には煙たい存在であろう職員をただ増やせば良いというだけの発想はこの際考え直しても良いのではないだろうか。
提言
 「より豊な生活の保障のために、出来ればボランティアの協力やヘルパーの利用についてもっと積極的に取り入れることを考えてはどうだろうか。サービスの種類や数も格段に増やせるはずである。施設職員は福祉サービスのプロとして、生活の基本部分の保障を確実にすることや、行動障害や不適応行動の改善等に力を注ぐべきである。 今後の課題として、措置制度の見直しと共に現行の措置施設であっても、まずは個人の生活が優先するという視点から、社会の様々な資源を利用し、サービスを受けることが、措置の枠を超えてできるように検討されていくべきであろう。」

3.実習または指導と称する使役

3 実習または指導と称する使役
 授産施設のように授産事業の位置付けが明確でない更生施設における作業実習等は、指導の一環として行われていることが多い。その内容、実施方法、作業収入の管理等は施設長の責任のもとに行われるわけであるが、施設外の作業で依頼主(法人の理事など関係者が多い)の都合に合わせるような実習としての“ただ働き”をさせる事例が散見される。
 これは、人権意識が欠如している施設長または理事長等の施設経営者が一方で営利事業、一方で福祉事業という二足の草鞋を履いている場合に発生することが多い。また、施設経営者が二足の草鞋を混同して行なってきたことをチェックしきれない法人理事会やそれを指導しきれない行政および地域の事情なども遠因と言える。 地域によっては作業の種類や条件等の選択をしている余地もない場合もあろうが、本人の意欲や能力があっての作業実習であるので個々人の処遇方針に沿ってできる限りバラエティに富んだプログラムをつくる必要がある。
 すでに一部では行われているが、更生施設における処遇方針の中で個々人にとって実習の必要性(しないという処遇も含め)を明確にし、処遇記録にその作業の意味付けを明記し、作業日誌等を整備し本人及び関係者への公開を基本とすべきである。 本来、作業収入は施設会計(業務が多様で、それなりの収入額がある場合は特別会計)に計上し、必ず本人に還元するような経理の明確化を図るべきであるが、実施できていない例もある。

提言
 「今後、より一層厳密な行政の監査指導が望まれるところである。また、個々人の処遇という視点から権利擁護機関やオンブズパ−ソン等の第三者機関が関与しやすい内容であろうと思われるので、まず保護者会等で情報交換するなど関係者の取組みを期待したい。」

4.異性による身辺介助

4 異性による身辺介助
 入浴における異性の介助、排泄時の異性による介助、同じく排泄の失敗に対する異性による介助、等の直接処遇をする場面で、特に利用者の全身または一部に直接触れることが問題になる場合がある。特に入浴では、陰部や脇の下の清潔が必要であるが、洗浄の仕方や個人差への配慮などを徹底するには、原則的に異性職員がこれに当たるべきではない。排泄や生理の場合も同様に考えるべきである。 しかし、実際には多様な要因が重なって、同性介助が困難となっている。多くは職員の勤務体制上の事情で困難となる。施設全体として必要になる職員の男女比や時間によっては、困難をもたらしやすい。
 利用者に対する理解の問題として、相手は分かっていない、恥ずかしがってはいないと考えてしまう。本人の意思の確認ができていない又は確認しにくいということはあっても、結局は職員全体の意識の問題である。 但し、ある県の施設職員の意識調査によると、障害者施設の職員の80%以上が、排泄介助、入浴介助とも異性による介助を止めた方がよいと答えている。このように同性介助が望ましいと思っている職員が圧倒的に多いと考えられるが、実際にはそのようになっていないのも事実である。
提言
 「幼児の場合には、男女の職員がそれぞれの役割を分担することもあり得る。それ以外の最低基準として、女子利用者に対する身辺介助は同性職員が対応すべきである。 男子利用者についても可能な限り同性介助を基本とするべきであるが、施設の実態としてそれが守れないことがおこってくる。 理念の面からは、一度自分や自分の身内がそのような介助を受けることと置き換えてみる。利用者本人と同年齢の人の生活とを比較してみる。本人の意思の確認をする等により、本人を含めて職員の意識向上を図るべきであろう。 その上で、実現性のある対応策を探るべきである。人手は、確かに大きな要素ではあるが、簡単に職員の確保が出来ない現在、このような直接処遇に関わるヘルパー利用の可能性なども探っていきたいものである。」

5.差別的言質・体罰

5 差別的言質、体罰
 日常会話の中での利用者の個人的特徴を人前で指摘すること。乱暴な言葉や軽蔑、からかい、さらに利用者の訴えの無視や拒否は差別であると知るべきである。また、命令的・決めつけ的な言葉も問題となる。なれなれしすぎる愛称などの呼称(後述)も同様である。 いわゆる体罰は論外であるが、それと気づかずに体罰的対応をしたり、不愉快な思いや肉体的苦痛を強いていることがないとは言えない。 職員の咄嗟の判断で、頭を小突いたり尻を叩いたりする、あるいは当然のように罰を与えられるということを耳にすることがある。本人のためと称して、結果としてしごきになっていることもあるかも知れない。 利用者に分からない言葉で指示を出して、通じないと本人のせいにして叱る、怒る、等々も明らかに差別や精神的体罰の範疇とみなされる。 まず呼称についてみれば、職員は、親しい間柄なんだから敬称をつけて堅苦しい呼び方をするよりも、愛称などの方がむしろ良いと勘違いしていることが多い。 体罰については、躾の一部、本人のため、訓練の一部として許されるなどと思い違いをしていることがあり、体罰とは認識していないことが大きな問題である。「どこからが体罰で、どこまでが許されるか」というような議論があるようであるが、そのような議論が存在すること自体が悲しむべき事であることが再確認されなくてはならない。
 力による支配はすべて許されないのであって、そうせざるを得ない場面になってしまったら、他に手段は無かったのか・その場面に至るまでに対応できなかったのか、などを反省とともに検討するのが専門家集団としての施設職員の責務である。施設などにおいて、力で押さえざるを得ないことがあるということと、それが職務として許されるということとは無関係である。
 また、児童施設では施設長の懲戒権と親権代行権が認められているが、職員が独自の判断で懲戒することはあってはならない。まして、体罰などの行われる余地はない。一方、成人施設においては、施設長といえども懲戒権がない。成人施設でこれが行われれば、人権侵害であり、暴力事件であることを知る必要がある。すなわち罰を与えるということ自体あってはならず、通常の対応の中でも結果として心身に苦痛を与えることは、体罰と同義であることは自明である。 これらの認識があっても、えてして自覚は薄れるものであり、常に戒める機会がなければならない。

提言
 「ここでは第三者の意見に耳を傾けることが一つの解決方法になることを提案したい。その為にはやはり第三者が施設にいつも出入りしていることが必要である。それは、特別な人である必要はなく実習生やボランティア、また短期入所などで施設を利用する人達も貴重な存在である。
 まだ数は少ないが制度としてオンブズマンやモニターを利用している施設も既にある。利用者の親や兄弟が、施設を体験利用してみることも必要である。 第三者の声を尊重し、職員に対する人権擁護の教育プログラムの構築や、倫理綱領の作成遵守が望まれる。」

6.呼称

6 呼称
 施設で生活する知的障害児・者の姓名を職員がどのように呼ぶかについては関係者の間で活発な議論がなされてきた。
 児童施設における「くん、ちゃん」にまだ不自然さはないが、思春期以降の障害者への「くん、ちゃん」呼びや呼捨て、ニックネ−ム使用等は考え方を変えるべきである。よく「親しみが背景にある」という説明があるが、これは職員側の解釈であり、ほぼ思い込みであり、対等な人間関係を築く上において相当に互いの認識に乖離があるとの自覚が必要である。
 これは当然成人施設での問題にもなるが、呼捨て・ニックネ−ム等の使用に本人が納得していたとしても呼称は「さん」を使うべきである。職員及び障害者本人に全く違和感がないとしたらそれは施設の中だけのことである。一般的には“聞き苦しく不自然な関係”にみられるので、この問題からは施設の社会化の程度がうかがわれることになる。
 能力がそれほど低くない人で、長らくニックネ−ムで生活をしていたために自分の苗字を忘れてしまったという例もある。また、職員ががいつも使っているニックネ−ムが他の障害者との人間関係にも影響を及ぼすこともある。 例えば、注意をしなくてはならない場合に、呼捨て等では感情的な状況に陥ることになる。「さん」呼びであれば心理的に対等な関係となり意志の疎通が呼捨てよりも図れるわけである。
 一方で、職員を「先生」と呼ばせる実態も解消すべき事柄である。対等な人間関係を保つためには相互の呼び方も対等にすべきである。 また、利用者の側で名前がわからないから誰にでも使えるという理由があるとしたら日常的な関係が疎遠であることの証である。
 一般の事業所においても年齢・肩書に関係なく「さん」付けで職場のモラ−ルを高めようという検討がなされているほど呼称は人間関係にとって重要な要素である。

提言
 「施設で生活する者同士が対等な人間関係を築くためには、常日頃の職員の立ち振る舞いのあり方に依存している。
 職員同士の会話の中での利用者の呼称の配慮が自然になるくらい職員会議等での意志の疎通及び研修が必要である。」

7.選挙誘導

7 選挙誘導
 特定候補者の名前を何回も練習させて、バスでまとめて投票所へ連れていくというような事件が起こる。施設側への批判は当然であるが、ではどうすればいいかという提案が無いように思われる。
 それは、知的障害者はどの候補者がいいのか判断ができないのだから投票しない方がいいという考えをマスコミを始め、福祉関係者など周囲の人間が無意識に持っているからではないか。つまり「投票に行った」という事が話題になるのでは無く、投票率が低いという事が本来は話題になるべきである。 知的障害者を政治の世界から遠ざけておいて、基本的権利である選挙権を行使できないままにするのは正しいことではない。
 ただし、個々の立候補者の公約について、ひとりひとりの知的障害者に分かりやすく説明し、候補者の氏名を書けるように練習させて、投票所に連れて行くのは、大変な労力であろうことは想像に難くない。
 それだけに、手間をかける熱意のある施設というのは、政治的に関心の強い施設であろうから、特定の政党なり候補者を支持している場合が多いと思われる。例え、露骨な誘導が行われなくても、真に公平な手続きがとられているか、疑問が残る。

提言
 「一定の集団(この場合は知的障害者施設)の投票率が低いような場合、管轄の選挙管理委員会が原因を究明して対応策をとるべきである。また、公正な手続きがとられているかどうかについても選挙管理委員会の主導により、第三者による検証システムを構築する必要がある。社会福祉施設入所者の数も相当増加しており、施設における選挙権の行使はすでに特殊な問題では無く通常の選挙システムに内包されている問題として捉えるべきであろう。」

8.見学者によるプライバシーの侵害

8 見学者によるプライバシ−侵害
 福祉に対する社会的な関心が高まる中で施設見学の要請も増えているが、福祉イコ−ル施設という従来の固定的な発想からのものが未だにある。 本来、その機会に知的障害者福祉に関わる情報提供を行ない更には障害者の人権についても理解を得るべきであるが、施設の大変さを訴えるだけで終わりがちである。 また、何らかの機会に世間に知られた施設には見学者が殺到し、利用者は常に人目に晒されることになる。特にテレビ等に多数の利用者の顔が映される場合、全てのケ−スにおいてきちんとした意志確認手続きが行われたとは言い難い。これは世間から大変な仕事をしているという評価を得るために利用者を見せ物にしていると言われても止むを得ない状態である。

提言
 「本来のあるべき姿として、まず利用者本人への意志確認のもと見学者に対して実習生やボランティアに準じて事前に配慮すべきこと等を伝えるべきである。 そのためには適切な見学受入れ計画作成や本人の意志確認を行なう手続きを明確にしたマニュアルや記録様式を整備することが望ましい。」

9.帰省の拒否・強要

9 帰省の拒否・強要
 在宅での生活が困難になったために施設に入所したのに、施設側から年に数回も長期の帰省を求められることがある。甚だしい場合、毎週の土・日曜日に帰宅を求められることすらあると聞く。本人と家族との繋がりを維持することは必要なことであるが、障害者本人の状態や家族の状況をきちんと判断せずに、機械的に帰省を強制していることは問題である。
 入所している障害者本人は、面会や帰省を楽しみにしていることが多い。そして、障害者本人が施設に入所すれば保護者の生活には余裕ができ、面会などの援助はできると考えるのが通常であろう。そう考えると、援助しないのは保護者の「わがまま」であると施設側が評価してしまいがちな状況にある。 しかし、地域で生活することが非常に困難になってからの施設入所の場合は、帰省することも困難なはずである。保護者等が面会に来られないケースも当然あるはずである。障害者本人の福祉を最優先に考えることはもちろんであるが、家族などに求める負担が過重になってしまうようでは、福祉制度としては不適当であろう。 入所者本人の高齢化に伴い、「家族」が親でなくて兄弟などに移り変わっている例も多い。親が行ってきた援助を、そのまま機械的に兄弟姉妹に求めることが適切であるか、検討されなくてはならない。責任を負わされるのを恐れて、一切の援助を絶ってしまう例もある。
 本来は訓練施設であるはずの精神薄弱者援護施設が、実態として生活施設になり、施設にいれれば「安心」だという観念が親や福祉事務所の中にある限り、「面会も帰省も無いのが望ましい施設入所のあり方」ということになるのである。

提言
 「どの程度家族が関われる状況なのか、福祉事務所や児童相談所の担当者が、施設と家族の間に立って専門的に評価をすべきである。施設と家族とが直接にやり取りをしている限り、結果的に施設の意向が優先してしまいがちである。 また、福祉事務所や児童相談所の措置が『職権』であるならば、その機関の職員がきちんと施設に面会に行くことで責任を果たすべきである。 特定の入所者に対する特定の『面会里親』というようなボランティア制度など、施設で完結しないような制度が検討されて良いのではないだろうか。」

10.施設利用者の年金等の管理

10 施設利用者の年金等の管理
 施設で生活している知的障害者の障害基礎年金等の管理は、施設または保護者が本人に代わって行なっている場合が多い。
 入所施設においては年金を含めた預り金の出納について、会計責任者(施設長等)の管理のもと、直接処遇職員(本人の意向の代弁者)及び事務職員(出納担当者)ら複数の職員が確認を行なう手続きがほぼ確立しており、本人及び保護者に対して、その出納簿の提示を定期的に行なうようになっている。 また通帳、印鑑及び出納簿の管理方法、本人等への提示等については各施設によって工夫しているところであり、法人内部監査及び行政監査においても経理を明らかにしている。
 しかし、一部施設において管理が煩雑であるからと現金等をまとめたり、一部の職員のみしか把握していない事例が散見されるが、これは事故のもとである。 一方、保護者が家庭において管理する場合、単に金銭管理を行なうだけでなく施設入所に係わる負担金の納入等本人に代わって行なわなければならないことがある。 しかしながら、このことが十分に実施されておらず、出納簿を本人や施設に見せることもないどころか、出納簿さえないといった場合がある。つまり、全て出身家庭の収入に充てられてしまうわけで、本人不在の年金となる。 施設が管理している場合においても保護者が本人の意志確認をして預かると主張すれば、施設側も応じざるを得ない。
 特に児童施設の場合は入所期間途中から年齢超過の重度成年の年金受給者が発生するので、その度に保護者とル−ル作りをする必要がある。 保護者側にはかつて受給していた特別児童扶養手当と混同して自分の金という感覚の場合もある。
 また在宅障害者と同じ年金を受給している施設利用者にその倍以上の措置費が施設に支弁されていることに比べ、在宅の知的障害者への施策が薄いことへの保護者の不満はかなりあると言える。

提言
 「このように年金管理などについて諸々の状況があるが、この問題を整理するためには施設か保護者かという問題のみでなく、障害者一人一人を単位とした財産管理について論議することが必要である。 これは今後の高齢化傾向により単身の障害者が増えるだろうということ、重度化によって家庭での介護に困難さが高まり入所施設以外の施設ニ−ズも高まることから関係者が多様化する見込みがあることが理由である。そのためには第三者による管理等の実現について早急に検討すべきである。」

11.寄付金の強要

11 寄付金の強要
 入所施設の金銭絡みの不祥事件が公けにされる場合、年金を横領されたという内容が多いが、それに係わって寄付金を強要されていたという問題も明らかにされている。 新設施設の入所前の説明会等で、入所希望者および保護者に対して入所を受ける前提として施設または法人への寄付をしてほしいと施設経営者が保護者に申し入れる場合等は強要というより脅迫に近い。
 これは施設整備について公費以外の自己資金に借入が多いので、その返済金を利用者またはその保護者からの寄付金で賄おうという杜撰な施設整備計画からの発想である。
 法人が施設整備計画書を作成する際の自己資金の寄付金予定者に理事でもない入所希望者が記載されることは施設認可まで相当時間がかかることから通常あり得ない。また、本来の行政処分を行なう福祉事務所の措置決定以前に入所者を施設が決めることもないはずである。
 しかし、施設整備の情報があれば入所希望者が集まってくるのは当然のことであるので、施設不足という固定観念から事前の暗黙の入所契約が成立してしまうことはあろう。その段階で個々人の状況とは係わりなしに寄付金を前提にすることは“弱みにつけ込む”との批判は免れない。
 また、施設入所中の改築修繕などについても寄付金を募る場合等に退所を仄めかすこともあるが、これも同様の批判を受けよう。 一方、施設側からすると決して強要していないという状況もあろうが、このような場合の保護者側の認識は法人側の言質を過大に受け取る傾向があることを忘れてはならない。
 保護者も年金程度ならと応じること多いが、このことも前項同様本人不在の年金流用である。提言
 「この問題については、当然のことながら施設整備における法人の資金計画に対する行政機関の厳密な指導が必要であり、入所説明会においては法人資産等の情報公開を前提とすべきである。 一方、個々の保護者がこのような悩みを専門的に相談できる機関の設置が望まれる。」

1.親子心中と子殺し

在 宅 関 係

1 親子心中と子殺し
 「ノイロ−ゼの母親が母子心中」などと報道される事件の中でその子どもが障害児である場合がある。これは我が子が障害児であることに悩んだ末のものであろうが、内容はまさにケ−スバイケ−スである。 年少の段階では障害児であることを親として認められない精神的な混乱であったり、認めても“癒らない”なら社会的弱者として生きていくのは可哀想で生きていても……と短絡的な判断をしたりと障害についての認知や受容が十分にできないままに行動を起こす状況もあろう。
 また、母親がその子を育てようとすることに父親が非協力的であったり、親族が母親の責任の如き非難をして母子を追い込むような状況もある。成年の障害者の場合、保護者が高齢化して将来を案じてという内容が多い。このような時は、その背景について報道されることが多い。
養育に当たる保護者の心労には計り知れないものがあるが、障害児・者当人にしてみると何も言えずに死なされるわけで人間としての重みが全くないと言える。
 親からすると一身同体の気持ちであるが、一方では私的所有物と見なしている我が子を殺した上の自殺であり、障害者自身が一人の独立した人間としての存在であることを無視しているとの見方があることを忘れてはならない。
 一方、親だけ生き残った心中事件も含め子殺しは親子心中とは異なる。特に児童の場合は最初から障害児に生きる権利を与えない殺人である。生まれたからには一人の人間であり親だからとその生命を奪う特権があろうはずもない。
 成年障害者で親が高齢化してという背景の場合は、今まで頑張ってきたからと同情的論が出るが、殺された障害者が同情されることはあまりない。
 従来から刑事罰も比較的軽く、障害者の生命は軽く扱われてきたが、最近の事例では障害者本人の個人的尊厳に触れられるようになってきた。


提言
 「今後、そのような事件が発生する際には、マスコミの表現や司法の判断を強い関心を持って見守っていく必要がある。
 また、当然のことながら福祉関係者は障害児を持った保護者へ対して十分な配慮をした支援を行なわなければならないし、機会がある度に『障害児の存在を想定していない社会基準』を修正する努力を継続すべきである。」

2.家庭内での虐待

2 家庭内での虐待
 家庭内における児童虐待について、子どもが多いとか経済的困窮家庭であるとか親の偏った価値観による等々の背景が言われてきた。 近年は、少子化傾向にありながらも、地域からの孤立や家庭内での没コミュニケ−ション等々の背景の中での養育に強い関心を持っている母親による虐待も報告されている。 また虐待の内容については、身体暴力、性的虐待、心理的虐待、放置、拒否等に類型されている。
 いずれにしても児童虐待は、ストレスの高い家庭内で同胞とはいろいろな面で違っていたり、親の期待どおりでなかったり、反応が遅いとか頑固であるとか等々養育が難しいことがきっかけとなって発生している。このため知的的障害を有する児童は家庭内で虐待を受けるリスクをかなり負っていると言える。 保護者が障害のことを十分に認知できずに高いレベルの要求をして児童を混乱させ、身体的暴力を与え、虐待を増幅させていく悪循環の中で死に至るものもある。 また、前項の子殺しの消極的な態度としての拒否、放置といったものある。食事を与えられないため食べ物を盗むとか、夜間屋外に出すとか近隣の人々が発見できるものもある。
 幼少期ばかりでなく、成長した女性がモラルの低い家庭内で性的虐待を受けるということもある。このような密室の中で発生する事例ははなかなか外部に漏れず、未婚の母の出産もしくは棄児などの結果で明らかになる場合がある。 いずれにしても障害児が成長発達していくために、その年齢に応じて保護者・同胞を含めた家庭を支えていく手段を関係者は準備し、情報提供しなくてはならない。

提言
 「障害児を持った保護者が事実を客観的に理解すること(障害認知)、そのことを認めて受け入れること(受容)をする幼少期は非常に重要である。その時期に係わる医療機関、一歳六か月健康審査・三歳児健康審査を実施する市町村、通園施設、保育所、幼稚園及び身近な立場で相談に応じる児童委員等の関係者は『障害者は一人の独立した人格である』という基本的な姿勢を保ちつつ保護者の気持ちを思い図りながらコミュニケ−ションをとる必要がある。
 また障害児の生命の関わるような状況の事例には緊急に介入できるシステムを児童相談所等を中心に早急に確立すべきである」

3.学校等におけるいじめ

3 学校等におけるいじめ
 児童の集団における「いじめ」は教育、福祉、保健、医療等複数の専門分野に関わる重大な問題となっている。この「いじめ」のメカニズムにおいて、いじめられる児童が他の児童に比して異なる特徴を持っている場合がきっかけのひとつになると言われている。
 障害児がいじめられるということは昔からの問題と言えないこともないが、近年の「いじめ」は陰湿かつ継続反復的であるという深刻さを持っており、なかなか表面化しないことが特徴である。 知的障害児は当然のことながらそのリスクを負っているわけで、家庭内における虐待同様にストレスの高い小集団の中でスケ−プゴ−トにされやすい立場である。 いじめる側の方は“裸足の足を靴で踏む”如く自らの痛みは全く感じていないことが特徴である。その背景として他の人と違うことを排除するような生活環境や障害者と関わりたくないといった自分の親逹の価値観を受けてきていることなどが考えられる。
 このため、就学後に特殊学級等で初めて知的障害児に出会い、自分たちとは違うという意識から距離を保つなり、排除の態度をとることになる。


提言
 「この問題の解消は一朝一夕にはいかないと思われるが、知的障害児を守る視点からは、障害といわれてるものは人間の持つ特徴であり障害者は特別な人ではないことを多くの児童及びその保護者に理解してもらうことである。 そのためには、教育、福祉、保健、医療等障害児に関わる機関が日常業務の中で強く障害児・者の人権を守る姿勢を示していかなければならない。そして、通園施設から養護学校というような専門的な環境にいれば『いじめ』を受けずに済むわけでもはないので、障害児が身近な存在であるという環境も整える必要がある。」

4.地域生活での孤立(一般的な余暇生活をおくれない)

4 地域生活での孤立(一般的な余暇生活をおくれない)
 知的障害者の場合、自ら求めて地域の活動に加わることは少ない。加わっても、一緒の立場の活動が難しく、周囲の配慮が足りずに、本人が「お荷物」意識を持ってしまう危険もある。
 年齢や所属する団体(会社など)によって日常の活動の場があり、さらに地域の団体に自由に加わって活動できるのが理想である。しかし、障害者の場合、自分で物事を判断したり、役割を分担するような経験を積んでこられなかったために、地域の団体に加わっても不適応を起こしてしまう可能性が高い。 学齢期に普通学級に在籍していた場合でも、障害の無い児童と同じ立場で関係を持つことができず、特殊学級や養護学校に在籍していた場合も、手厚い職員配置の中で「配慮された」教育を受け、やはり仲間同士の対等な付き合いができなかったためであろう。
 このような状況を打開するため、当面は知的障害者同士で自主的に活動できる場が確保されることが有効と思われる。
 このような方法は、ノーマライゼーションの理念から外れる「囲い込み」であるかもしれないが、単に「一緒」であればいいということではなく、「実質的に同様の質の生活が営めることが目的である」と考えれば、このような発想で実質的保障を考えることも適当であると思われる。その上で、次のステップとして地域活動に参加するため、受け入れるための種々のプログラムを用意すべきである。 本来は、障害者側に適応を求めるのではなく、受け入れる側が慣れることで対応するべきであり、一緒の場面でどのような受け入れ方法をとれば、お互いに役割を果たしていけるかという研究が必要である。
 現行の教育体系の中では、障害者については特殊学級・養護学校等で教育を受けることが一般的であって、障害の無い児童が障害のある児童と関わる機会がほとんどない。分けたものを繋ぐ交流教育等がパイプ役としてあるものの、当たり前の関係ではないところで特別な取り計らいをすることには限界がある。 いずれにしても幼少期から成年に至る地域の集団活動の中に十分に馴染めずトラブルを起こすことは障害のある者にとってもない者にとっても不幸なである。

提言
 「教育の場面において、障害の無い児童生徒と協力・役割分担していく中で、お互いが集団参加の方法を学んでいくことが必要である。その上で、障害児の学童保育や作業所等の地域の団体活動の中で一般の地域団体との交流を重ねるなど時間をかけた活動が必要である。また、外出援助のためのガイドヘルパー制度を創設することにより、日常での社会参加の経験を積めるようにすることが必要である。」

5.労働搾取

5 労働搾取
 知的障害者が就労している事業所での財産詐取、人権侵害事件が社会的関心を強く喚起している。  景気が低迷しているため諸々の配慮を要する障害者の雇用がますます厳しくなっている社会的状況の中で、「多数の障害者を雇用してよくやってくれていると見られていた事業所」において実際はとんでもない行為がなされていたという報道がなされている。
 障害者雇用の助成金目当てどころか、個々の障害者の年金を詐取したり、年金証書を担保に年金福祉事業団から融資を受け自己資金としたり、または家族から適当な名目で寄付金を募ったりと諸々の問題が公けにされてきた。 更に、法に抵触する長時間労働や低賃金労働、労働現場での暴力、「たこ部屋」のような寮生活等々の営利優先、人権無視の実態も明らかにされた。 マスコミに報道される事例等は、被害者も多く継続反復的に行われていたものであるが、そのレベルに至らなくても小さな労働搾取は身近なものである。そして、障害者本人の証言能力の問題などから実態としてのやりどく状態と言える。 このような事件は事業者側(加害者)の問題であることは当然であるが、何故早期に発見し是正させるなり障害者を保護することができなかったのかが課題となる。 まず、労働基準監督署、福祉事務所等の第一線機関の権限はその問題となった行為について部分的にしか関与できず、関係機関相互の連絡もケ−スバイケ−スとなり、後手に回ることが多い。
 また障害者本人の表現する能力の問題があるが、代理者がいればしかるべき機関に赴き被害を伝えることはできる。通常、保護者が行なうべきであるが、事業主に遠慮したり家に戻ってこられては困るという拒否があるとなかなか実現出来ない。

提言
 「知的障害者が今後同様の被害を受けないためには、従来、事件が発生してケ−スバイケ−スで動いてきた関係機関が障害者の人権擁護という立場で定期的な連絡会等を開催することが必要である。
 また、一人一人の障害者の稼働や生活状況などを定期的な訪問をして個別に話を聞くような公的な立場の人間が必要である。
 このような連絡会や訪問は継続することが重要であると思われるので関係者の検討を望みたい。」

6.職親による不適切な処遇

6 職親による不適切な処遇
 職親委託とは、精神薄弱者福祉法第16条1項3号に規定されている行政の措置で、知的障害者に対して職業指導を行う援護である。職親委託は、精神薄弱者福祉法が施行された当初からの援護であり、古い制度である。法的には施設入所と同じく実施機関(福祉事務所)の措置であるが、実態としては相当違う。 職親委託に対して、障害者一人につき、月額2万3千円(平成9年度単価)の委託料が支払われるが、この額の根拠は明らかではない。生活すべてについて面倒を見るのであればこの額では安いし、住み込み就職に対する「加算」と考えればその必要性が明確でない。さらに、使途も限定されていないので、いわば「ご苦労さん賃」としか考えられない。委託料の内容がはっきりしないということは、職親の業務内容も福祉事務所の責任の範囲もはっきりしていないということである。
 全体として考えると、職親制度というのは、本来は労働に関する制度ではないかと思われる。形態として住み込み就職であり、福祉制度としての組み立て自体に無理があると言えよう。福祉制度とされているので「委託」であるが、委託の範囲が明確でないので、生活全般の面倒を見てもらうことが暗黙の了解となっている。
 同じように生活全部を見てもらう制度でも、法定の施設であれば、運営について明文化された規定があり、最低限の保証がある。職親制度の場合は、明確な規定がほとんど無く、職親任せである。実態として職親個人の「善意」に頼った制度といえる。 しかし金銭管理を例にとっても、委託されている障害者に管理能力が不足している場合、職親に管理を手伝ってもらうことが当然であろうという、ある意味で危険な制度であると言える。

提言
 「制度そのもののあり方を検討すべき時期にきているが、早急に対応すべき問題は財産管理についてである。  複数の人間による相互牽制システムや、行政による監査・確認システムなしに他者の財産を取り扱わざるを得ない現状は放置されるべきではない。委託をしている実施機関による監督体制を整備すべきである。」

7.法的手続き困難

7 法的手続き困難
 地域の中で社会生活を営む上では、自ら各種の手続きを行わなくてはならない。行政に対する申請、銀行など民間機関とのやり取り、売買などの契約など、数え切れないほどの手続きが必要である。これらの手続きがうまくいかない場合、相当の生活上の不利益が生じる。
 知的障害者の場合、手続きの困難さ以前に、手続きが必要なこと自体が理解できなかったり、送られてきた通知が解らなかったりすることがある。また、さらに複雑な手続きになると代行に近い程度の援助が必要である。 このように、手続き上の援助をする場合、法的な専門知識が必要なことが多いため、弁護士・司法書士等がその任に当たるべきと思われている。 確かに、土地取引や訴訟手続きなど、専門家でなくては処理できない場合もあるが、通常の生活の中では、これらは比較的少ない事例である。 必要な分野ごとに専門家が必要であると、障害者の生活が分野ごとに分断され、生活へのトータルな援助という視点が抜け落ちてしまう危険性がある。
 知的障害者には、専門的な手続きを代行するのではなく、日常の中での本人への援助をする「何でも屋」的な援助者が必要である。現実的には、障害者の生活に実際に役立っているのは、責任ある立場の「プロ」ではなく、守備範囲のあいまいな「アマチュア」的な立場の人たちが多いのではないだろうか。
 そこで、障害者の地域生活を保障するためには、このような「非専門的」援助者への公的な位置付けと、援助内容に見合った費用の確保が必要である。 また、法的手続きの典型である訴訟においては、弁護士に依頼することが通常であるが、知的障害者の場合、依頼すること自体が困難なことが相当あると思われ、弁護士に依頼する際の費用を負担することができずに、訴訟を起こすことができない場合もあるであろう。このため、通常より権利を侵害されやすい知的障害者の権利保障のためには、何らかの公的補助制度が必要である。

提言
 「個々の手続きの代行などの問題だけでなく、生活を総合的に支えるシステムが必要である。成年後見制度などの整備に加え、個々の障害者について、各種制度や制度以外の援助、地域の資源の活用などを責任を持ってコーディネートしていく立場の職種が必要である。
 その上で、弁護士などに依頼する必要があって、法律扶助の対象とならないような場合に、弁護士謝礼などを公的に補償する制度も検討すべきである。」

8.犯罪被害

8 犯罪被害
 神戸の小学生殺害事件はその猟奇的内容と加害者が中学生ということから社会に大きなショックを与え、多くの議論を引き起こした。 そして、加害者の少年の名前等の公開とプライバシ−保護についてマスコミの議論はかなり熱心であった。 一方、被害者の方は死んだものにプライバシ−はないのか名前と顔写真は毎回のように報道された。その児童が障害児であることは頻繁に報じられるとはなかったが、障害児であることに同情したのか障害の問題を論ずると複雑になるので避けたのか推測するしかない。
 ともかく、一人の障害児が犯罪被害者となり死んだ後も家族を含めて、同情という世間の注視の的にされプライバシ−を侵害されたと言える。 このような重大な事件だからこそいろいろな立場からの議論がされたが、日常的に発生する犯罪被害は目立つような特徴がなければあまり議論されることもない。
 例えば、重度の知的障害を持つ女性が暴行を受け妊娠出産をしても本人の理解・表現能力から相手を特定することができない場合がある。特定できても、合意だとか他にもいるはずだとか知的障害を持つゆえ反論できないだろうと多寡をくくったような対応をされることがあり、事件にはなり難いことがある。これは相手がまさに知的障害者であることを承知の上でのことであり、卑劣な行為と言える。 その他知的障害者を狙っての犯罪は、いろいろな場面である。学校等では『いじめ』からの『暴力』、そして暴力をを受けたくなかったら金をもってこいという『金銭の恐喝』、金がなかったら盗んでこいという『盗み等の強要』等がある。
 また、社会的活動をするようになってからは景品等で巧みに誘って契約書を書かせ、健康器具や印鑑等不必要なものを買わせてしまう『キャッチセ−ルス』等がある。最近は支払いを年金支給の時期に合わせるなど、いかにも障害者をタ−ゲットにした商法もあり、関係者はより一層の注意を要する。 このことに対して本人が十分に理解できないことや表現できないこと及び被害を正確に伝えられないことをどう支えていくかが関係者のにとっての課題である。

提言
 「軽重を問わずあきらめるはその段階で本人の人権を否定したことになるので、保護者を中心とした関係者が本人の意向を十分に汲み取り弁護士と相談するなりして問題を公けにしていかなければならない。これらことについて身近な所で容易に相談できる権利擁護機関の設置等の環境づくりが必要である。また、痴呆の高齢者と同様に弱い相手につけ込むような犯罪に対しての処罰に加重をかけるような検討も必要である。」

9.年金を親が使うこと

9 年金を親が使うこと
 高齢の母と知的障害者の息子との二人暮らしをしていた家庭で母親が死亡したため親族が遺産整理をしたところ、母が息子の年金証書を担保に年金福祉事業団から相当な額を借り入れており、本人には知らされてもおらず還元もされていなかったという事例が報告された。
 この場合、借入金及び借入前の年金をその内容はともかく実質的には母親が全て使っていたと推測される。
 通常、親は、日々の生活で本人に係る支出を出納簿に記して管理したり、自分逹が死んだ後同胞に面倒を見てもらうにしても経済的負担をかけてはいけないとか、施設入所するにしても全く財産がなくては困るだろう、と本人のために蓄えている場合がよくある。
 一方で、この事例のように年金を自分のものとして使ってしまう親からすると、年金は養育者として受給していた特別児童扶養手当等が本人名儀の年金に変更されたくらいの感覚かもしれない。これは子どものお年玉を親が使ってしまうのと同じことであり、結局障害者本人の人格をわからないからと一人前扱いしていないことである。 現実的に障害者の年金を親もしくは親代わりの人間が使用してしまうということは、家庭内において共同生活をする親子関係等からすると容易に起こりうることである。 本人を伴っての申請や受給の手続きや、本人に代わって買い物をすること等は違和感がなく、一般的に親の代わりに施設長や住み込み就職先の事業主が年金や借入金の申請等に同行し実質的に手続きすることも可能な状況である。

提言
 「いずれにしても一人で判断することが困難な知的障害者には、親もしくは親代わりの立場の人の援助がどうしても必要であり、今後も同様の知的障害者は増えると思われる。
 自分の親によって障害者自身の不利益が発生するような年金管理代行等は、従来の親を中心とした私的な支援関係から公的な支援システムに移行することを検討する時期にきている。保護者もしくはその代行をする者が管理する場合にその監督を第三者が行なう等のシステムが必要である。」

10.外出の制限・自粛

10 外出の制限・自粛
 飲食店や床屋などの通常は誰でもが普通に利用している町のお店等への入店拒否を時々耳にする。理由は、様々であり、そば屋ではちょうど麺が無くなったと断られ、理髪店では、動く人は危ないから散髪できないと言われた例など散見される。 時には、以前利用したときに迷惑をかけたので、次の年は勘弁してくれと、ホテルの予約を丁重に断られたという例もあった。繁忙期を避けて欲しいとか、交通機関では予約が必要といった場合もある。
 そして、こういうことによって、本人が躊躇するようになったり、家族が気おくれして知的障害者の社会参加に消極的になる懸念がある。だからといって声高に一般の人と同じに扱われるべきだと主張することは出来ない場合もあるので、具体的な対応に関してはしばしば見解が分かれることがあり、戸惑うことが多い。
 このような問題の背景として一つには知的障害者への社会的無理解、二つ目には具体的な事実を伴う場合があること。例えば喧噪、乱暴、いたずら等により、周囲の人への迷惑や影響が危惧される場合。中には不潔行為のため断る気持ちを否定できないことがあるかも知れないが、多くは利用に至る前の拒否であり、経営者との関係の中にその原因が存在する。三つ目にはその家族または介護者に対する信頼感が乏しいことなどが考えられる。
 自粛という観点からは、家族自身に潜在的な差別意識が潜む可能性もある。

対応
 「社会一般へのバリアフリーに向けた啓蒙は、具体的な事例を通じて理解を深める努力を続ける中で、引き続き行うべきであろう。 社会に障害者が合わせなければいけないといった旧来の考え方は、無論捨て去るべきであるが、幼少時から社会参加を見通した発達援助や躾は本人の状態に応じて不可欠である。
 障害者自身の社会的技能の向上と社会的技能を必要とする場合の援助技術を涵養することも併せて必要であろう。
 例示したような残念なケースも未だ散見される。しかし、近年はどの人も自分たちのサービスを買って下さる大切なお客様であるということであろうか、他の客と何ら区別されることなく気持ちの良い対応をしてくれる商店やサービス機関が少なくなくなった。営業上の努力といえばそれまであろうが、中にはその姿勢を関係者が学ばなければならないような場合も少なくない。」

まとめ

まとめ
 知的障害者の人権に関わる問題について、一部の関係者からは今更のことでなく以前からあったものであるという説明があるが、これは「放置してきた」証である。 放置してきたということは、わかっていたが改善できなかったということではなく、人権擁護の視点に欠けていたということである。 今や、障害は特殊な問題から一般的で身近な問題となっており、人権擁護もその視点に立って考える時代である。 しかしながら、障害者に対する一般的関心も拡がってきたというものの、身体障害者の車イス、白杖や手話という象徴と比べると知的障害者については印象が薄い状況である。それだけ知的障害者は施設であろうと在宅であろうと街に出ていなかった(社会的活動の制限があった)と言える。
 これは知的障害に対する社会的認知の低さ、教育のシステムのあり方、労働環境の不十分さ、及び専門的支援体制の不十分さ等々の複合的要因によるものと考えられる。 今後、各関係者はこれらの要因から成る社会的規範が知的障害者を含んだ柔軟な新たな規範になるように努力すべきである。
 そのため施設においては経営者や職員の研修は当然のことながら全て丸抱えのシステムでは人権擁護を確保できないことの認識のもと第三者機関等による評価システムの導入の必要がある。
 在宅支援に関してはノ−マライゼ−ションの理念の実現に向けきめ細かく柔軟な施策の展開が必要である。このことに入所施設が役割を果たすのは言うまでもないことである。
 とりわけ、障害児を養育する保護者が我が子を独立した人格であるという認識に立てるように相談支援体制を強化し、一方で、それを実現するため障害者のライフサイクルに即した保護者の代理的機能を行なう第三者的な立場が必要である。


平成10年3月
埼玉県社会福祉士会
「知的障害者の人権侵害に関わる提言」作成委員会
山本 進 遅塚昭彦 栃窪ゆみ 森山千佳子 栗原直樹

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